ANN演劇部。。演劇。。カミュ『カリギュラ』


ANN演劇部の第2段を。。来年も公演しよう!と。。いうことになりました。
大河ドラマ、舞台「ムサシ」公演。。。忙しいとは思いますけど、きっとね☆

旬君のANNは、お笑いや歌手の方とは違う旬君のカラーである。。演劇を、何とかラジオでも盛り込むことが、旬君にとっても支柱になっているのでしょうね。(真面目ですよね。)
準備も実現もスケジュールも大変そうですが、小栗旬という人は、ストレートにうまくいかない、ややこしい世の中には「面倒くせぇ!」って思いそうですけれど。。こういうことには全然面倒がらずに何とか時間を取って。。丁寧に楽しく実行してくれそうですよね☆

旬君の演劇への強い想い。。アルベール・カミュは作家ですが、やはり演劇への情熱を持っていた人でした。

カリギュラ』のアルベール・カミュは、幼少時に戦争で父を失い、貧しい生活となります。小学校を出たら働かなくては。。というほど。しかし、カミュの才能を先生が見抜き、進学を勧めます。。周りの裕福な友人の中で。。悲しみを忘れようと。。スポーツに打ち込みますが、吐血してしまい、結核発症がわかり、入院します。当時の結核は死を待つばかりのような重いものでした。
その時に見舞いに来てくれた哲学教師のグルニエが、カミュにリショーの小説、『苦悩』を贈りました。カミュはその中に、苦悩をいやす言葉の力を発見します。奇跡的に結核が回復し、アルジェ大学で文学と哲学を学び、作家になることを決心します。。



岩切正一郎さん訳の「カリギュラ」の解説の中で、神戸女学院大学教授(フランス現代思想)内田 樹氏の「アルベール・カミュと演劇」というものがあります。そこに。。。

H・R・ロットマンは「伝記・アルベール・カミュ」の中であるエピソードを伝えていた。

1955年、3月26日。カミュは<ノクタンビュール>劇場で、『カリギュラ』の全文朗読を行った。聴衆は青少年。初めは単調な読み方だったが、次第に熱を帯び、終幕に至ると、各人物を本当に演じていた。。聴衆は本物の上演を観ている印象を持った。

この短い記事から、初演から既に十年が経ていた『カリギュラ』に、アルベール・カミュがいまだに深い愛着を持っていた事が知れる。


 カミュは(共に活動していた)サルトルとの『反抗的人間』をめぐる論争の後、失意のうちに長く気鬱な沈黙を守っていた。作家的に非生産的なこの時期に、戯曲の翻案と、上演についてだけは活動的であった。カミュが示した演劇への情熱について。。こう書いている。

彼の生涯の最後の十年を支配していくのはもはや文学ではなく、演劇なのである

。。。中略。。。

文壇でも論壇でも、絶えず身を守るための戦いを余儀なくされていたカミュにとって、演劇は「敵が居ない」唯一例外的な存在だった。彼はそこで仲間達に囲まれていた。

カリギュラ』ではジェラール・フィリップが。『誤解』ではマリア・カザレスが、戯曲に息を吹き込んだ。観客は主演の俳優たちに魅了された。彼等はその深味のある声と美しい身体を経由させることで戯曲に命を与えることができる。

小説や、哲学書においては著者以外の誰かが命を吹き込むことはあり得ない。戯曲にいおいてだけそれが可能になる。だから戯曲は孤独ではない。

カミュは1958年のインタビューでこう語っている。

私にとって忘れがたいものがいくつか存在します。例えばレジスタンスや、コンバ見られた同志的連帯がそうです。随分昔の話になってしまいました。けれども演劇にはその友情と、集団的冒険がいまだに残っています。私にはそれが必要です。それが 人が孤独でなく生きる事が出来るもっとも心暖まる方法の一つだからです

。。。。略。。。。。

カミュが求めたのはカリギュラ』は戯曲として読むことよりも、上演されることであり、上演された舞台の観客となることだろう。

その意味で、岩切正一郎さんが、この新訳を活字化に先立って、まず上演台本として差し出したというのは、カミュの意思を実に正しく理解した振る舞いのよういに思われるのである。以上。。一部を抜粋させて頂きました。。。 


2007年、11月7日、東京渋谷Bunkamura シアターコクーンで初日を迎えた。。
小栗旬主演。舞台『 カリギュラ 』 。

この日はアルベール・カミュのお誕生日でした。
カミュは幾つかの戯曲を書いていますが。。とりわけ『 カリギュラ 』を愛したということです。

舞台上でこの戯曲『 カリギュラ 』を、役者達が、息を吹き込んで上演してくれるのを、こよなく愛したカミュにとって、旬君たちの公演は、天国のカミュへの素晴らしいプレゼント公演になったと思います。。

蜷川さんもご自分の追悼公演は『 カリギュラ 』を。。とセゾニアさんに仰ったそうで。。



演劇に無縁だったファンにも。。その素晴らしさが。。旬君を通して多くに伝わっていくのが感じられますよね。





アルベール・カミュ

フランス系アルジェリア人の子としてモンドヴィ(Mondovi;現ドレアン, Dorean)アルジェリアに生まれる。1914年9月、幼くしてマルヌ会戦(第1次世界大戦)で父 リュシアン(Lucien)を失い、聴覚障害を持つスペイン系の母と、アルジェのベルクール地区で幼少期を送る。17歳の時に結核にかかるが一命をとりとめ、アルジェ大学を卒業。21歳の時アルジェ地区の共産党に入党し。アラビア人達に共産党の宣伝活動をするがその翌年離党する。1940年にパリの雑誌社『パリ・ソワール』の編集部員となるがドイツ軍がパリを制圧すると9月にアルジェリアに帰国する。1942年にカミュは再びフランスの地を踏み非合法誌『コンパ紙』を発行するなどレジスタンス活動に参加する。第二次世界大戦終結後はアメリカに渡りニューヨークで学生達を前に講演し熱烈な歓迎を受ける。

『異邦人』や『シーシュポスの神話』、『ペスト』などの著作で、人間存在の不条理さに光を当て1957年にはノーベル文学賞を受賞した(『この時代における人類の道義心に関する問題点を、明確な視点から誠実に照らし出した、彼の重要な文学的創作活動に対して』  ; "for his important literary production, which with clear-sighted earnestness illuminates the problems of the human conscience in our times.")。これは、第二次世界大戦後としては最年少での受賞であった(史上最年少はラドヤード・キップリング)。

哲学者、文学者ジャン=ポール・サルトルと共同で文学活動を行ったが、1951年に刊行した評論『反抗的人間』における共産主義批判を契機として雑誌『現代』においてサルトルらと論争になったことで決裂した。かつて実存主義者とみなされることが多かったが、実際には実存主義提唱者サルトルなどと文学的内容は異なっており、本人も実存主義者とみなされることを強く否定していた。1960年、自動車事故死。遺作は『最初の人間』。

著作

小説
1942年 『異邦人
1947年 『ペスト
1956年 『転落』
1957年 『追放と王国』(短編集)
1971年 『幸福な死』 - 『異邦人』の初期草稿で、1936年から1938年にかけて執筆された。大筋は完成していたが放棄され、カミュの死後に刊行された。
1994年 『最初の人間』 - 1950年代半ばに構想し、1959年から執筆を開始したが、翌1960年にカミュが交通事故により早世したため未完に終わった遺作

戯曲
1936年 『アストゥリアスの反乱』 - 3人の友人との合作
1944年 『カリギュラ
1944年 『誤解』
1948年 『戒厳令
1949年 『正義の人びと』
1953年 『十字架への献身』 - スペインの作家カルデロン・デ・ラ・バルカの神秘劇の翻訳
1953年 『精霊たち』 - 16世紀の劇作家ピエール・ドゥ・ラリヴェイ作のコメディア・デラルテの翻案
1955年 『ある臨床例』 - ディーノ・ブッツァーティ作の小説の翻案
1956年 『尼僧への鎮魂歌』 - ウィリアム・フォークナー作の小説の翻案
1957年 『オルメドの騎士』 - 16-17世紀スペインの劇作家ローペ・デ・ベーガ作の戯曲の翻訳
1959年 『悪霊』 - ドストエフスキーの小説の翻案

[編集] エッセイ、評論など
1936年 『キリスト教形而上学ネオプラトニズム』 - 学位論文
1937年 『表と裏』
1939年 『結婚』
1942年 『シーシュポスの神話
1943年 - 1944年 『ドイツ人の友への手紙』
1951年 『反抗的人間』
1954年 『夏』
1957年 『ギロチン』