シェイクスピア入門・・・「サライ」Vol.20より (1)
ストラッドフォード・アポン・エイヴォンに立つ ハムレット像
シェイクスピアの作品の魅力を特集
第二部では蜷川さんも。。登場して、語っていますが。。まず。。一部から。。
【第一部】・・沙翁(シェイクスピア)とは何者か。
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小田島雄志さんの案内・・・・
小田島雄志さん・・・ シェイクスピアの全戯曲37篇の翻訳を、個人で完遂している方。 コレは往年の英文学者や劇作家でもなしえなかった快挙。 東京大学名誉教授。東京芸術劇場名誉館長。「シェイクスピアより愛をこめて」他著書多数。
「ロンドンへ行ったら小学生でも野外劇場で「夏の夜の夢」を見て目を輝かして、身を乗り出している。シャエイクスピアはそういうものなんですね。」
「シェイクスピアは 何歳で呼んでも、そのたびに新発見ができる“人生劇場”」
「山に例えれば、富士山より八ヶ岳に近い。単独峰である富士山の威容は、どこから見ても姿形はほぼ同じ。だが多くの峰が連なる八ヶ岳は、見る人、見る場所によって様々に異なる姿の、それぞれの美しさを見せてくれる。」
何故、37作品にも及ぶ優れた戯曲を生み出せたのか。。。
小田島さんによると。。
「シェイクスピアが4歳の時、父親はストラッドフォード・アポン・エイヴォンという町の町長だった。経済的にも恵まれて幼年期は町一番のお坊ちゃま。
ところが、13歳の頃から家が没落してしまうのです。」
ちやほやしてくれていた周りの人が一転して顔をそむけた事もあっただろう。
「おそらく、人生というのは、自分の思うに任せぬもので、幸福もあれば、不幸もあるということを、身にしみて感じたでしょう。
一方で、人間には表もあれば裏もあるということを思い知る。
その結果、シェイクスピアは、物事を一歩引いて見るという事を身につけたのではないでしょうか。人間は絶対に正しいとか、真実を知るべきだと言った絶対的なものの見方ではない。どれが彼の戯曲に膨らみや陰影を与え、多面的、立体的な登場人物を描かせたと考えられるのです。
経済的理由でシェイクスピアは大学に行けなかった。中学を出てロンドンに出て役者となり、少しずつ戯曲にてを染めていったと推察される。当時の他の戯曲家達が大卒者だったので、「田舎出の無学の人間にあんなに素晴らしい戯曲の数々を書けるはずないと言われてしまいます。
坪内逍遙、夏目漱石が残した功績が大きい。シェイクスピアを日本に。。
彼等は教科書代わりにシェイクスピアを重用した。
それまで日本にシェイクスピアを紹介した、仮名垣魯文、川島敬蔵もいましたが、本格的な紹介は何と言っても、坪内逍遙。。と小田島さんは言う。
坪内逍遙・・・19年の歳月をかけて、全40巻の『 シェークスピヤ 全集』を刊行。
日本で最初のシェイクスピアの個人全訳でした。
坪内逍遙は、江井文学講義でも、テキストとしてシェイクスピアを俎上に載せている。(早稲田大学の前身・東京専門学校にて)
夏目漱石も、東京大学(帝国大学)で、シェイクスピアを講じて人気を博していた。当時の講義を聴いた布施知足は『漱石先生の沙翁(シェイクスピア)抗議振り』で、歯切れの良い面白い講義だったと評しているそう。
漱石や逍遙によるこのような講義が次世代の知識人、文化人となる青年たちの胸の奥に、シェイクスピアの魅力をじんわりと染み込ませたに違いないと。
他の戯曲作家よりもずば抜けて愛される存在
志賀直哉の『クローディアスの日記』、太宰治の『新ハムレット』といった文学も含め、翻案ものの作品数で、シェイクスピアに匹敵するものはいません。
これは彼の中に共感できる要素が多く、かつ、自分ならこう表現したいというものがあるからこその現象です。
シェイクスピアが活躍したエリザベス朝時代のロンドンの劇場。。
正面の張り出しの舞台を中心に、建物両翼と前方の三方に観客席を持ち、青天井(天井がない)という形式を基本とする。
これを現代に如実に伝える建物が、早稲田大学構内にある。
坪内逍遙の古稀と、逍遙による『シェークスピヤ全集』全40巻の完訳を記念して昭和3年に創設された『早稲田大学坪内博士記念演劇博物館』(通称・演博)
16世紀にイギリスに実在していたフォーチュン座という劇場を模して設計・建築されたもので、建物自体が一つの演劇資料である。
同館は4000点に及ぶシェイクスピア関連の洋書を所蔵。坪内逍遙がシェイクスピア作品の翻訳に当たって作成した、直筆の生原稿や、ノートなど、貴重な資料も多い。他にも、演劇関連の錦絵4万7000枚、舞台写真20万枚と、一般の演劇資料も充実。
毎週金曜〜日曜の午後1時〜4時にはボランティア解説員が客殿展示の解説も行っている。。
ここで当時、シェイクスピアの作品が演じられ、観客が溢れ、建物の屋上にも沢山いる様子の写真が載っています。。。。
また少しずつ。。