。。。。


少々長いので。。たたみます。。



会津(福島)の方々には。。薩長に対する気持ちは穏やかではなく。。
その。。戊辰戦争で活躍した長州の藩士たちが。。松陰の門下生であったことから。。
松陰に対しても。。複雑な想いがあるそう。。><。。


本当に。。悲しいです。。
一方から見れば。。英雄でも。。観る角度を変えれば。。。。><。。



これは松陰に限らず。。家康でも。。そうですが。。


ただ。。ドラマにするとき。。
例えば。。信長。。秀吉を主人公にした時の石田三成と。。

家康や。。直江兼続を主人公にしたときの三成とでは。。描き方が変わります。。


今度の旬くんが演じる吉田松陰も。。主人公側から見ると。。。描き方が変わりますね。。><。。




(認識が浅い私ですから。。わからないことも多いのですが。。)


松陰は何度か会津を訪ねていて。。会津藩について学んでいました。。



松陰は。。あの時代。。小国でも。。アメリカのような大国に。。負けない国づくりを急ぐ必要があると。。
不利な条約を結ばされるような国ではなく。。対等な国交を行える国。政府を。。急には出来ないけれど作らなくてはいけない。。と。。
道義で治められている国は。。大国でも攻められない。。
命を惜しむことなく。。行動することを説き。。実行しようと。。


新島八重が活躍する戊辰戦争の。。随分前に。。松陰は亡くなっていて。。


松陰が亡くなった後。。諸事情の変化が激しくなり。。
幕府。。会津。。朝廷。。長州。。薩摩。。
それぞれ。。関係性が変わっていきます。。


大きな括りで言うと。。松下村塾で学んだ塾生が日本を変える大きな出来事に関わった。。と。。なっています。。


でも。。門下生にも。。松陰と深く意見を交わした門下生と。。それほど深く知らない門下生もいて。。

松陰が。。身分の分け隔てなく。。入塾させていたこともあって。。


当時。。身分が低く。。世に出て行くために。。大きな後ろ盾が必要だった人もいて。。


松陰と深く意見をやり取りした。。いわゆる第一門下生たち。。また第二門下生でもない。。ほとんど意見を交わすまでにはいかない門下生もいた。。


山縣有朋などは。。身分が低く。。松陰が亡くなる少し前に入塾し。。ほとんど交わすこともなかった人でしたが。。山縣自身が「松下村塾生」とのちのちまで称したそう。。

そして。。これは。。wikipediaによりますが。。



戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩会津若松市)と長州藩萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。
実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。


このように。。松陰の想いと。。離れてしまった行動にも。。名前を使われてしまったこともあったかも。。><。。


深く意見を交わした門下生でも。。最後の頃は。。忠義を説く松陰と。。功績を残したい門下生と。。次第に離れてしまっています。。


松陰が亡くなって。。

幕末。。薩長に倒幕されそうになって。。幕府は大政奉還をし。。
幕府の安泰を図り。。倒幕の動きが一応収まったものの。。

朝廷の下の公家の中から。。「やはり。。幕府は倒しておくべき」という考えが強くなり。。薩長の力を利用して。。倒幕。。


松陰は。。亡くなった後。。激動の時代で。。会津を。。苦しめることになることは想像していなかったかもしれない。。


八月十八日の政変では。。会津藩薩摩藩公武合体派が。。長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件が。。


そして戊辰戦争。。




低い身分であった伊藤や山縣の。。。松陰が思ってもみなかった行動。。


これから。。ちょっと勉強していきますが。。事実に近い。。脚本で。。届けて貰いたいですね。。