松陰。。ざっくり(2)


いやいや。。。毎日少しずつ。。ざっくり書いていこう。。って思ってたら。。
。。><。。
一日坊主になってた。。
ちょっと。。長い(2)になっちゃった。。



(1)と重なりますが。。ちょっと詳しくここから。。。。

19歳。。松陰は。。叔父の玉木文之進の指導を離れ。。
毛利藩校・明倫館の独立師範(兵学校の教授)に就任。。

ところが。。松陰は。。その兵学が先進国に。。遅れていることに気づき。。
20歳。1850年。。見聞を広めるために。。藩に九州遊学を申し出ました。。
藩からは。。10ヶ月の遊学許可が下り。。平戸。。長崎。熊本。。を学んで回った。。
その時に。。松陰は生涯無二の親友を得ます。。

熊本藩の名士だった宮部鼎蔵(みやべていぞう)という人。。

松陰と宮部は。。このままでは日本の国防に大きな不安がある。。強国に負けない国防の必要を強く感じます。。

そして。。翌21歳。1851年。参勤交代に同行して江戸も遊学します。。
そこで。。佐久間象山に出会う。
(この象山は「八重の桜」で。。奥田瑛二さんが演じるそうで。。でも。まだ先の。安政の大獄の頃からかも。。)

この江戸でも。親友。。宮部鼎蔵と再会し。。
二人は「水戸学」や「海防」などを学ぶ東北の旅を計画します。

ところが。。約束の東北行きの出発日になっても。。。松陰に。。なかなか藩からの関所通過書(身分証明書)が届かない。。
ついに。。松陰は。。当時。。重罪とされる脱藩を決意し。。出発します。
毛利藩の明倫館の独立師範(教授)の身分も捨て。。><。。
宮部との約束を守り東北への遊学を果たすことの方が。。何より捨て難いことという。。

松陰は。。「学んだことを活かし実行に移す大切さ」を生き方で示す人。。



脱藩した松陰は。。宮部鼎蔵。。他と。。東北遊学へ。。
水戸(茨城)。。会津(福島)。。弘前(青森)。。を視察。
津軽海峡では通過する外国船を見学しようとしていました。。どこまでも。。向上心と。。
国を強くし。。守らなければ。。という強い想いが原動力になった。。凄まじい行動力。。


そして。。江戸に戻ると。。脱藩の罪で。。萩(地元)に送還され。。藩士の身分を失い。。。実家の父・杉百合之助の保護下におかれます。。


しかし。。松陰の才能を惜しむ毛利藩主から。。10年間の国内遊学の許可が出るという異例さ。。

よほど。。当時の毛利藩は。。松陰の才能を買っていて。。松陰が学ぼうとすることも。。国や毛利藩には大切だと思ってのことですね。。

そして、2度目の江戸遊学へ。。そして。。前回江戸で出会った。。佐久間象山に師事する。



23歳。吉田松陰が。。佐久間象山。。宮部鼎蔵らと。。江戸を遊学中に。。
1853年。。。黒船が来航。。
(ペリー提督が率いる。。アメリカ合衆国東インド艦隊が。。浦賀に来航。。)

松陰は。。早速。。佐久間象山浦賀(横須賀)に出かけ。。黒船を観察したという。
松陰は。。西洋の先進文明に衝撃を受け。。やはり幕府の国防に対する不備を強く認識し。。大きな危機感を覚えます。。



西洋の列強国からかなり弱小と思われる日本を守るためには。。まず。。その「西洋の先進文明を知ることが必要」と。。海外渡航・・外国留学を決意します。。


ペリーが去ってひと月後。。
こんどはロシア艦隊が。。長崎に入港。。

松陰はロシア船に乗り込む密航計画を立て長崎に向かいます。。
毛利藩足軽金子重之輔とともに。。

しかし。。これには間に合わず。。。
着いたときには。。ロシア艦隊はすでに出航した後だったという。。><。。


再び江戸に戻ります。。
松陰は。。まだ密航をあきらめてないのです。。


日本を守るために。。是非知らなければいけない西洋先進国の文明。。


24歳。1854年。ペリー再び来航。。
今度こそ。。西洋の先進文明を自分たちが知って。。国に必要な知識を得てこなくては。。

この時。。長崎にも同行した。。金子重之助は。。松陰の密航計画を知り。。松陰に同行を強く願い出ます。


この金子重之助が。。吉田松陰と。。師弟関係を結んだ一番最初の人。。


松陰と。。金子重輔はペリーの船に乗り込もうと様々な手を尽くしましたが。。叶わず。。><。。




最後の機会。。と。。下田に移動したペリーの船に。。夜に。。小舟をこぎ寄せ。。
アメリ渡航の希望を伝えます。。
(旗艦ポーハタン号上で。。主席通訳官・ウィリアムスと漢文で筆談したそう。。)

アメリカと日本は条約を結んだばかりで。。お互いの法律を守る義務があり。。ペリー側は。。松陰たちの必死の頼みにも渡航を許可出来ず。。
松陰の密航計画は失敗に終わってしまい。。

(これが成功していたらね。。><。。)

小舟に残した証拠から。。罪が問われることを覚悟した松陰と金子は下田で自主。。
江戸伝馬町の牢屋に投獄されます。。

この密航事件の頃。。佐久間象山も投獄されています。。

松陰と。。象山を。。死罪にしようという動きもありましたが。。老中の首座・阿部正弘が反対し。。助命されます。。


松陰と。。弟子の金子は萩に送還され。。
ここで二人は別々にされてしまいます。。><。。


松陰は。。士分が入れられる萩の野山獄に送還され。。

金子重輔は。。劣悪な環境の岩倉獄へ入れられ。。25歳で病死。。松陰は金子の死を深く。。悲しみます。



松陰は。。この野山獄で。。密航の動機と。。その思想的背景を『幽囚録』に著しました。。

そして。。囚人達を相手に「孟子」の講義を始めます。これは。。後に。。「主体性を持った『孟子』の解釈」として。。松陰の主著となる『講孟余話』となったもの。

ここ野山獄で。。富永有隣(後に。。松陰とともに松下村塾で教える人)とも出会います。。


野山獄投獄から1年2か月が経ち。。出獄を許され。。松陰は自宅謹慎を命じられます。。
実家の杉家に「幽囚」の身として戻ることに。

松陰は自宅に設けられた幽囚室で。。
親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開します

幽囚室での「孟子」講義は。。単なる解説ではなく。。松陰独自の解釈で行われ。。高い評価を得。。萩城下に広がっていきます。。