沢庵和尚。。三成。。

下で三成の話を短くしようと思いながら。。これも。。書かせて頂きたく。。長くなるのは気が引けたので。。別にして。。^^

義に生きたもう一人の武将 石田三成より。。


「ムサシ」の時に沢庵和尚の話も出ました。。

宮本武蔵に「剣禅一如」の道を説いた人。。として有名な和尚さま。
というのは吉川英治による「宮本武蔵」の本の完全なフィクションです。。


実際の沢庵和尚は。。

小早川に焼かれてしまう。。佐和山城から。。三成の母の肖像画を大事に持ち出してくれ。。今もその三成の母の画が残っています。

三成とは関ヶ原の前の一年間。。ともに佐和山城で過ごし。。
その前に出会いはあり。。意気投合していたという。。

私利私欲のない。。秀吉への恩を。。忠義を貫く三成の傍で。。
話を聞き。。深く感銘を受けているのです。。

沢庵和尚は徳川二代将軍秀忠の時に「紫衣事件」で幕府に抗議して流罪の刑に処せられましたが。。その後。。三代将軍家光の深い帰依を受け。。家光の心の父と言われるほどの名僧だったといわれる方。。


話は戻って。。
沢庵は師の春屋宗園とともに 三成が亡くなったあと。。罪人としての三成の遺骸を引き取って。。大徳寺三玄院で葬儀を行い埋葬までしています。
それは当時。。勇気のいることでしたが。。


出会いのきっかけは沢庵が京都に出る時に身を寄せたのが大徳寺三玄院であった。この大徳寺の三玄院は。。三成と浅野長政。。森忠政とともに春屋宗園のために建立したもの。。

浅野長政は。。後に前田利家の子。利長とともに家康の陰謀で家康暗殺の嫌疑をかけられる。。そのため。。甲斐国に謹慎を命じられ。。浅野家は東軍につくことに。。
長政は三成を認めていたのだけれど。。息子の幸長は三成とは対立。。)

その為。。沢庵は幸長と会うのを避けます。。。

大徳寺の三玄院を建立した。。三成と浅野長政(幸長の父)ですが。。だからと言って。。想いはそれによることなく。。人柄で。。沢庵の想いは違っていたようです。。。。

大徳寺千利休が晩年。。山門を再興したという寺で。。利休と大徳寺も深い関係があり。。。。千利休の処刑が。。三成の入れ知恵によるという話が作られましたが。もし。。そのような疑いが少しでもあれば。。三成を埋葬したり。。しないはずで。。お互いの人を知り。。話を知っている大徳寺の僧侶たちがどちらとも深くおつきあいをしているというのですから。。)


出会いは。。三成が母の葬儀を大徳寺三玄院で行い。。その時に沢庵と出会い。。意気投合し。。知己の間柄となったということです。。。。

そして三成は母の為に 佐和山城内に瑞嶽寺を建立しました。 
春屋宗園は三成の為に弟子を瑞嶽寺の住職に据えましたが。この弟子の弟子が沢庵だったので。。そこで三成と再会したのです。。


沢庵和尚は関ヶ原の戦いで。。秀吉に恩を受けながら東軍として三成と戦った元豊臣家臣とは。。合戦後。。会う事を避け続けました。

細川忠興から父細川幽斎の供養のために建てた寺の住職就任を断り。。

1612年。浅野幸長が会いたいと言って来ても。。密かに寺を抜け出してまでも幸長と会う事を拒み。。

1617年。黒田長政から父の如水に供養に招きたいととの要請にも断り。。




ちなみに。。大徳寺三玄院の初代住職(沢庵の師の)春屋宗園が亡くなった時の葬儀には。。北政所(秀吉の正室)も参列しました。春屋宗園と深い信頼関係を結んでいたという。。

そして。。北政所は。。関ヶ原の戦いでは淀との確執から家康を支持したと言われたのも間違った話で。。

北政所の甥たちも小早川秀秋以外はみんな三成とともに西軍として戦っています。
これは北政所の意が反映されているからで。。

そして。。合戦後。。
北政所は。。秀吉の子飼いでありながら家康方についた加藤清正。。福島正則らとの接触は拒んだのです。。