三成の佐和山城。。

三成の城。。佐和山城は。。見かけは豊臣政権の威信を損なわないように立派な外見でした。。

多くの武将や。。三成の事をよく知らない反感を抱いていた家臣達からは。。

さぞ。。秀吉からも多くの褒美を貰い。。
豊臣政権の奉行を務めて。。いたので。。よくはからって貰いたい武将達から贈り物がさぞ沢山あったであろうと思われていました。。

同じ奉行職であった。。長束正家の水口城には
金銀5千枚。銀三百貫目。金熨斗つきの刀、脇差し千腰。。などなどがあった。。「改正三河風土記」より。。


しかし。。三成の佐和山城は。。

徳川家康に従軍していた医師板坂卜斎の「慶長年中卜斎記」に
佐和山城には落城以後。。金銀は少しもない。三成は少しも蓄えて居なかったからだ。。。」とあります。。

また。。
三成が亡くなった後。。兵士が豪華なものを期待して城に入ったところ。。

壁は荒壁で上塗りなど施されておらず。床も多くは板張りで。。
庭には。。高価な樹木もなく。。
手洗いの鉢も粗末で。。
ガッカリした
という。。「甲子夜話」より。。


贈り物などを受け取らず。。
贅沢をせず。。質素に徹し。。

江戸時代の書物「老人雑話」に三成が普段から言っていた言葉として。。

主君から頂いたものは 全て。主君のために使って残さぬものだ
残すのは盗人であり。。
さらに 使い過ぎて借金するのは偶人である
。」と綴られています。。

三成のものは多く消されましたが。。多くの庶民の間に広まって文字になって残ったものは。。気付かれなかったのか。。残っているんですね。。



そして。。井原西鶴の書いた「武家義理物語」には
三成に奉公していた女性が京都伏見の米屋を営んで。。認められて。。
さすがに石田家に召し使われていただけの事はある」という話が載っているそうです。。


当時は三成の功績を消して悪く伝えようとされましたが。。

徳川家康の孫にあたる。。徳川光圀水戸黄門さま)は。。
三成は 主君秀吉のために 義を持って事をなしたのだから、敵として憎むべきではない。。」とし。。

大日本史」の中で。。光圀は。。
人の臣たるものは 治部少(三成)のように心掛けるべきだ」と言っています。。



旬君が 二度も大河で。。佐吉。。三成を。。演じてますから。。
実像が。。如何に頭がよく。。武将として。。素晴らしかったか。。

認知されて欲しいもので。。ちょっとしつこいです。。

戦に弱いなんて。。とんでもない。。という話もいつか。。